2012.01.04 Wednesday
2012年の写真
そこは本当に宇宙と地球の狭間であり、僕たちはこの膨大な宇宙空間の中にある
- 展覧会/イベント(写真)
- 23:21
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- by bookandphoto
(池澤夏樹、畠山直哉トークイベントメモ)
成層圏の夕日の美しさは、人間の生活の場では見られないところにある。
人間に対して自然は無関心である。自然は無関心で、しかしそれは悪意ではない。
被災地にて→陸前高田では何かがしたくてシャッターをきる。叫ぶ、と同じ。地上から30センチくらい浮いて、ふらふらさまよって写真を撮っていた
幾度となく出かけている被災した土地で何もできなかった→いまだに湧いてくる疑問を抱えてウロウロしているだけ→考えを仕立て直すことができない→泣くしかない→満たせない器が残った
どんな時に泣けてきたか→思いがけず人から優しくされてふと涙がでた
出会った美しさを写真に撮るかどうか?
南極で記録としてクジラを撮る→感動するくらい美しいクジラは撮らなくても記憶する。偶然に別の場所で会いたい。欲張る事はしない
一回しかおこらないことを撮るか?
カメラが動かないこともあるかもしれない→待ち構えてとることがない、自分の写真はハンティングではない。決定的瞬間を追わない
発破の連写作品について→鳥が飛んでいるのか最後に写っている24カットをつなげた。鳥を入れるか入れないがで作品の意味が変わる
救いのような自然現象に対して→自然に対して意味付をしてはいけない
そんなに自然はあまくない。そのことには気をつけなければならない
自然に対して最後の最後に救いを期待する。鳥に意味付してしまう、というようなことは危険だとしてきた。しかし震災後、それを自分に許すようになった
著作「春を恨んだりはしない」
何とか言葉にしなければいけない→作家のできること→震災の全体像をつかむために書いた。凄まじい体験が無数にあった
デジタルとアナログについて→デジタルもアナログも像を写す、ということについては同じ。写っているものはどちらでもいいものはいい。フィルムには自然科学の根っこがある。それがあってこその今であることをふまえているかどうか
対局的にみるとどちらでも同じ。
フィルム→デジタルだとリアリティがなければ写真をやめるという選択もある。例えば、フォトグラムの作家はやめざるをえない
現代では、混ざり合っても写真としての魅力、概念があるはずだと思いたい
(おそらく、文学、美術を含めた表現について言っている)
「美しいもの」として提示されている「美しくないもの」をがまんできない→それについて真剣な議論をしたい→今までは黙って見過ごしていたものに対して発言して行く→正しく厳しく線引きをするつもりでいる→なぜなら、今、現実はもっと深刻なはずであるから

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